プレゼントって誰のため?

こんにちは。恋鳥です。

 

今回は初恋の話はお休みして、Twitterで話題になっている恋人間のプレゼントの話題に触れていこうと思います。

 

Twitterの内容を要約すると……

彼氏さんが高価な誕生日プレゼントを贈ったにも関わらず、彼女さんからの誕生日プレゼントは手作りの品。彼氏さんは贈ったプレゼントと同価格帯のものを期待していたので激怒した、という話。

 

これ、ポイントは2つあると思うんですよね。

 

1つは、善意に見返りを求めてしまっているということ。相手に喜んでもらうためではなく、自分が見返りをもらうために贈り物をしたってことですよね。相手のためのプレゼントじゃない。

 

2つ目は、相手が何をあげたら喜んでくれるか考えられていなかったこと。相手が欲しがる物ではなくて、自分のあげたい物をプレゼントしてしまっていたのかもしれません。自己満足のプレゼントは相手のためになりませんよね。

 

つまりこの問題、お互いがお互いの事を想えていないから起こったんです。お互いがお互いの事を想ってプレゼントを贈りあっていれば、こんな悲しいことにはならなかったはずです。

恋人という立場にあぐらをかかず、常に相手のためを想って行動したいものですね。

 

 

今日は恋歌の代わりに文学の紹介を。

『賢者の贈り物』 オーヘンリー作

ある貧しい夫婦は、クリスマスプレゼントを買うために自分の大切な物を売ってお金をつくります。

ところが、お互いプレゼントしたものは、売ってしまった髪や金時計に使うもの。

相手の大切にしている物をより輝かせる物を贈りますが、それを贈るために自分は大切な物を売ってしまっていたのです。

これぞ、最大限に相手を思いやってこその行為。

 

今回のテーマにピッタリの作品。ぜひ一度読んでみてください。

 

初恋に7年費やした話②

こんにちは。恋鳥です。

 

今回は前回に引き続いて私の初恋を話を。

 

先輩方が引退して、私はパートリーダーを、彼は副部長を任されました。

 

パートを引っ張るのは私の役目だったけれど、もともとどちらかというと縁の下の力もちタイプ。人をまとめるのは苦手な部類で、上手くいかずに涙した日もありました。

代わりにパートをまとめてくれる彼のリーダー気質に嫉妬していたのも事実です。

羨ましさや劣等感を素直に認められない、まだまだ幼かった私の居場所を陰ながら守ってくれたのが彼でした。

 

彼は副部長の仕事もこなしながら、パートの後輩にも私との関係が悪くならないように取り繕ってくれていたことを、後から知りました。

 

もともと憧れて大好きな人だったけれど、この一件でますます好きになりました。

 

続きはまた今度。

 

 

今日の恋歌

 

ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは

 

この歌は、小倉百人一首にも収録されているので有目な歌かもしれません。

元は前回もご紹介した八代集の一つ『古今集』に収録されていた歌です。

 

作者は在原業平という平安時代前期の歌人です。

六歌仙三十六歌仙という歌の名人に選ばれています。『伊勢物語』のモデルになったとも言われています。

 

この歌の意味は、

様々不思議な事が起こったという神の時代でさえも、こんなことは効いたことがない。竜田川に一面の紅葉が浮かんで、真っ赤な紅に水を絞り染めにしているとは。

 

この歌は二条の后という人に贈られた歌なのですが、実は業平と后は恋人関係だったのではないかと言われています。

 

ちなみにこの歌をもとにした落語があることはご存じでしたか?

 

 

参考:デジタル大辞宣泉『ちはやふる

   長岡京小倉山荘 ちょっと差がつく「百人一首講座」

 

 

 

 

初恋に7年費やした話①

こんにちは。恋鳥です。

 

今日は私の初恋の話しをちょっとだけ。

 

私の初恋は中学一年生の時。

 

お相手は同じ吹奏楽部のA君。

私なんか比べ物にならないくらい楽器が上手で、賢くて、リーダーシップのある人でした。自分にはない部分に憧れて、そのまま恋心が芽生えるのはいくつになっても変わらないのかもしれません。

 

担当楽器も一緒だったので、毎日部活の時間になると会えるのが楽しみでした。

後から分かったことですが、思っていることが顔に出るタイプなので、私の気持ちはすぐに周りに広まっていたらしいです。

 

毎日会えるだけで、一緒にいられるだけで信じられないくらい楽しかったのを覚えています。

 

憧れのような、淡い恋心のようなものを抱えて、私たちが三年生になったある日、関係が少しづつ動き始めるのですが、その話はまた次回。

 

 

 

今日の恋歌

 かち人の 渡れどぬれぬ えにしあれば

 またあふさかの 関は越えなむ

 

伊勢物語』69段 男と斎宮の禁忌の恋のシーンで詠まれた歌です。

 

上の句を女が、下の句を男が詠み、二人でひとつの和歌が完成します。

 

意味は、

 人が渡っても濡れる事のない浅い江ですので(私たちも同じように浅い縁でしたので)

 またいつか逢坂の関を越えましょう(ともに逢瀬を待ちましょう)

 

という切ない歌です。

上の句と下の句で作者が違うことに加え、掛詞という和歌の修辞技法も使われているので少々難しい歌ですが、この機会にふれてみてください。

 

    参考文献:『大学生のための文学トレーニング 古典篇』 三省堂

         今井上・中島真也・光延真哉・吉野朋美 編著

 

 

 

 

 

始めまして、恋愛ブログ始めました

始めまして恋鳥です。

 

キラキラした部分も、ちょっとドロドロした部分も。

恋愛って人生のスパイスだと思います。

 

特に学生の頃の恋愛は、必需品ではないけれど、そこに恋心があるだけで、毎日がちょっとだけステキになる。

 

恋愛のアレコレを少しずつ発信していきたいと思います。

ぜひ読者になって一緒にトキメキませんか?

 

 

今日の恋歌

瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ

 

 崇徳院の詠んだ歌で、小倉百人一首の77番歌でもありますから、ご存じの方も多いかもしれません。

 崇徳院平安時代の人物で、この歌はもともと『詞花集』という和歌集に初小禄されています。『詞花集』は八代集という権威ある和歌集のうちの一つで、崇徳院が編纂を命じてつくられたものなんです。

 

 ちなみに百人一首では「せ」の一音だけで札が特定される一字決まりの和歌としてもおなじみです。

 

 さて、この歌の意味は

流れのはやい川が岩によって流れが別れてしまうように、私たちも別れてしまった。

しかし、その流れがやがて一つになるように、愛しいあの人ともいずれ再会できる。

 という切ない恋の歌です。

 

愛しい人との再会を信じる気持ちには、現代の私たちにも少し覚えがありますね。

 

では、また次回。